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挿し絵と作者について
これらの挿し絵は、県内を代表する一級建築士で多忙を極める横須賀満夫会員に、22年以上前から描いて戴いています。
作者である横須賀満夫会員の審美眼もさることながら、温故知新の精神が垣間見えタッチの繊細さに加え、メリハリの利いた大胆な構図は秀逸です。
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72期挿し絵 「梅香る弘道館」
旧弘道館を背景にした梅を描いたものです。お題は岡﨑恵一郎会長から頂いたものです。 会長は三の丸小学校の卒業生との事でした。旧弘道館は岡﨑会長にとって、少年時代のすばらしい原風景として大事にされているものなのでしょう。敷地内には趣のある好木がいくつもあります。一度お訪ねください。
69期挿し絵 「新旧安神車」(水戸市)
右側の絵は徳川斉昭が作った安神車を18年前に描いたもの、左の絵は建築家の藤森照信氏が作った新安神車(?)を描いたものです。いずれも水戸東照宮に納まっています。斉昭作は歴とした戦車であり、荷車の上にこれを乗せて牛に引かせたものです。幕末、ロシアの南下に備え、斉昭が鍛刀師 久木新七郎に命じて作ったものです。本気で戦うためのものだったかは定かではありませんが、壁には小銃用の穴や床には排泄用に備えたと思われるものがあり御丁寧にも蓋付きです。
さて、この代物を見て、建築家の藤森さんが何を思ったか、何と動く茶室を作ってしまいました。氏は虚空を見るための茶室と言っています。茶室の外側は戦車に似せて銅板を鎧状に張ってあり、車輪は大木の幹を輪切りにしただけのもので、茶室全体は外側を規則正しく緻密な鋲止めされた銅板に包まれた建築というより江戸時代の工芸品のようにみえます。
尊王攘夷時代の大型工芸品と現代の粋を凝らした茶室安神庵(?)が同時に見られる場となりました。虚空の茶室は昨年水戸芸術館で開催された藤森照信展「自然を生かした建築と路上観察」で展示され評判を呼んだものです。筑波大学の貝島桃代准教授とその研究室の学生や腕自慢の市民が加わって作られたものです。展示会終了間際に、当時芸術館副館長の大津良夫さんをとおして恐る恐るこの大作を水戸に、そして東照宮へお譲りして頂けないものか本当に恐れながら申し入れました。当然返事も頂けず、藤森さんに面識があるといっても不躾なお願いに恥ずかしい思いが募るばかりでありました。3ヶ月程経って、芸術館現代美術センター学芸員の井関悠さんから吉報が入りました。藤森さんが「水戸で大事にしてくれるならお譲りしましょう」との粋な計らいとなったとのことでした。東照宮の宮本章宮司さんも大変喜んでくれて、温かく迎え入れてくれました。今は立派な仮住まいに展示されています。最終的には藤森さんに展示空間をお願いすることになっています。新しい水戸の宝を拙画ではなく“物(ぶつ)”に浸って覚醒してください。
66期挿し絵 水戸市庁舎(水戸市)
40年間御苦労様でした (水戸市庁舎)
昭和44年当時の木村伝兵衛水戸市長は市庁舎を三の丸から駅南へ移転する計画を発表した。場所は駅南小学校予定地とされた。当時市役所事業の中で、赤字と事業遅延に困っていたものに下市と駅南の区画整理があった。市役所の移転により地価が上昇するであろうから、駅南区画整理事業の推進にも役立つであろうとの思いが判断材料になったものである。
市庁舎、水道庁舎、市民会館の建設は順調に進み、市庁舎全体は昭和47年9月18日に業務が開始された。
区画整理事業を発展させる起爆剤の役割を併せもつ駅南移転は、地価の値上がりを待つ地主や建物の建設を見合わせている企業も多く、行政機関のみが孤立してしまう危険を含んでいた。
昭和46年11月14日に水戸市長に再選された木村伝兵衛氏が翌年に急死、7月30日に市長選が行われ和田祐之介氏(67)が初当選した。水戸市三の丸庁舎の旧庁舎から新庁舎に移転し、業務を開始したのが9月18日であったため、木村伝兵衛市長時代に計画建設された新庁舎に木村市長は入ることなく他界し、和田市長が新庁舎の最初の市長としての椅子に座った。
2011年3月11日の東日本大震災で市庁舎が被災し、40年の勇姿を閉じる事となった。新庁舎で業務を開始した頃は市役所までの交通の便が悪く、近くを通るバスも無く、駐車場は職員が使用し、不評であった。周囲には町並みもなく、不便極まりないものであった。
40年の駅南地区の街づくりや景観づくりに先導的にそして規範の一つとなった市庁舎に御苦労様を申し上げ、次の時代を担う新庁舎の完成に心から期待をよせたい。
64期挿し絵 旧町屋変電所(建築設計:横須賀満夫)
サムスン美術館、ホキ美術館、十和田市現代美術館とミュージアムシリーズを続けたが、今回は望郷の思い強く、我が故郷の歴史的建築物を描いてみようと思う。
この、国の登録有形文化財『旧町屋変電所』(常陸太田市町屋)は、1909年(明治42年)に町屋発電所と中里発電所の為に久原鉱業所日立鉱山(現日立製作所)が建設した変電施設である。洒落た煉瓦造り、切妻屋根の建物に寄棟屋根の建物がつながる外観。県内初期の発電関連施設として資料的な価値ばかりでなく、目の前を里川が流れ、背後には美しい山並み、春の桜、夏の緑、秋の銀杏、冬の雪景色の中に佇む赤い煉瓦作りのこの建物は、童話的で不思議な魅力がある。1911年(明治44年)、水戸・笠間・土浦に続き、県内でも4番目に電気がこの地に光を灯した時、町屋の人々は「電気が見たけりゃ町屋へ行け」と町のシンボルを誇ったという。
ところで、この旧町屋変電所には、もう一つ、『茨城の電気王』と呼ばれた男、前島平(まえじま・たいら)にまつわる物語がある。1865年(慶応元年)、水戸藩士の家に生まれた前島。だが時代の流れに生家は生活に窮し、15歳の時に久慈郡太田村(現常陸太田市)の亀宗呉服店に奉公に出る。20歳の時に、その働きが本家「亀半」呉服店の当主に認められ婿養子となった。呉服店を栄えさせた前島は、1906年(明治39年)、茨城初の電気会社「茨城電気株式会社」を設立、建設を始めたのが前述した中里水力発電所なのだ。しかしこの事業は暗礁に乗り上げ、日立鉱山開発で電力を必要としていた久原鉱業所日立鉱山に一時譲渡することになる。その譲渡金を元に、前島は水戸に火力発電所を建設。1907年(明治40年)、水戸市内へ茨城初の配電線による電気の供給を始める。その後、中里発電所を日立鉱山から買い戻した前島は、同時に町屋発電所、町屋変電所を買取り、1911年(明治44年)故郷の人々の家に電気を灯すのである。
町屋変電所は、1956年(昭和31年)まで機能した後、地域の集会所として利用され、今は地元の保存会によって整備されている。近年は、町屋変電所のライトアップイベント『行灯の赤レンガと銀杏まつり』なども開催されるなど、今も地元の人々に愛されている。
63期挿し絵 ArtsTowada十和田市現代美術館、チェ・ジョンファによるフラワーホース
ArtsTowadaは通りを一つの大きな美術館と見立てた、アートによるまちづくりプロジェクトです。「官庁街通り(約1km)」でアート作品、十和田市現代美術館、アートプログラムの三つの要素を柱に展開し「アートの感動を共有する」まちを目指しています。
白くミニマルな建物と鮮やかなコントラストを出しているのはチェ・ジョンファ作の「フラワーホース」です。
62期挿し絵 ホキ美術館
美術館シリーズの第2弾です。
保木将夫氏が収集した絵画をメインに収蔵したギャラリーです。コレクションの中心は驚異的な密度で描き込まれた写実絵画であり、美術館の原型を思い出させるギャラリーです。千葉県千葉市に出来ました。
61期挿し絵 サムスン美術館・ソウル
茨城空港を利用しソウルへ研修旅行に行き、ソウル市内にあるサムスン美術館をスケッチしたものです。美術品の内容も素晴らしいものがあります。
現代建築の3巨匠マリオポッタ、ジャンヌーベル、レム・コールハースの建築が圧巻であり、オープンスペースに置かれた女性彫刻家ルイーズ・ブルジョワの母蜘蛛が色を添えています。
60期挿し絵 六地蔵寺本尊(六地蔵尊)
六地蔵寺の本尊は身丈六尺の一木造りで行基菩薩一刀三礼真作と伝えられている。六体の地蔵菩薩(六地蔵尊)である。
水戸RC、WeeklyReportの為にこの御本尊様を絵にすべく5月の連休に現地を訪れた。しだれ桜の季節でびっくりする人出であった。一回目のスケッチはのぞき師が多くラフスケッチで帰り、二回目、そして三回目でようやくまとまった。本当の地蔵様は地蔵堂の中に6体ではなく、7体が納まっている。プラス1体は地元民が火除け地蔵として寄贈したそうである(栗原住職談)。 六地蔵信仰についての話を引き続いて栗原住職より伺った。
「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天上」この六つの世界へ死後、生前の行いによって巡り行く、これが鎌倉時代民衆の伝わった六道輪廻の思想である。戦乱の世を迎え「生き伸びること」を優先した人々は死後自分達が訪れる道を案じた。来世は「地獄」か「餓鬼道」か。
そこでお地蔵様を六つの世界に配置する信仰が生まれたのだという。そもそも「お地蔵さま」は苦しみを取り除いてくれる存在として日本全土で古くから信仰されてきたもので、女性のお産が少しでも楽に済むよう、病気や、怪我に苦しむことのないよう、また、心の苦しみや悲しみを取り除いてくれるようにと、各地、各所に祀られ生活に密着した馴染み深い信仰の形である。
また六つのお地蔵さまに、どうか来世どの世に生まれても見守ってもらえるようにと祈る。人間の弱さとともに純真さを感じさせる民衆の思い、これが六地蔵信仰の根幹にあるとの事だった。私は輪廻なしで結構ですから「天上」にとどまります事を真剣に願って参りました。
59期挿し絵 水戸八幡宮御本殿(国指定・重要文化財)
慶長3年(1598年)佐竹義宣公により建立。一重入母屋造、桁行三間、梁間二間、意匠が大変奇抜である。
木割も太く、安土桃山の美の特徴をよく捉えている。
工匠は佐竹公お抱えの「御大工」吉原作太郎(当時15歳)であった事が本殿内墨書により判明した。杜内の国指定天然記念物(昭和4年指定)御葉付き銀杏(樹齢700年)が見事である。
58期挿し絵 さようなら水府橋
水戸市の那珂川に架かる水府橋は開通から75年を経て、今の県都の大動脈としてその存在感を示しています。このスケッチに見られるように、美しい構造美を今も誇っています。
橋の開通は1932年(昭和7年)、世界的な大恐慌に見舞われた昭和初期に政府の失業救済事業として行われました。橋長172.1メートルの水府橋の形式は、専門的には下路3連ワーン型トラス3連橋と呼ばれるものですが、構造面で注目すべき点は車道の両側にそれぞれ2メートルの歩道が設けられている事です。車の交通量が少ない当時としては、橋に歩道を設けることは考えられないことでしたので、画期的な橋と言っても良いと思います。
開通は当日のいはらき新聞に「水府橋きょう第一歩を記す。水戸に新名所」と見出しを打ち、翌日の夕刊では小学生2千人が日の丸を手に、渡り初めをする模様を写真3枚入りで伝えています。総工費約17万円の水府橋は市民待望の本格的な鉄鋼の橋だったのです。この那珂川に架かる名物橋も数年後には去り行く運命にあります。水害を防ぐための河川改修に伴って架け替えが決まり、新橋の建設が下流域に進められています。
市民の暮らしや楽しさを支えてきた名橋にご苦労様、そしてさようならを!
57期挿し絵 レストランよこかわ
建築様式の一つとして、「モダーン様式」があります。モダーン様式を要約すれば装飾を極力避け、シンプルなデザインを目指したものです。この建物は1971年に建築家増沢洵が設計をしたものです。水戸には珍しく現役の商業建築として活躍している、「モダーン様式」の建物です。
56期挿し絵 宮下銀座
宮下銀座通りは昭和45年に完成した事が当時の「いばらき」に掲載されている。この完成は当時の世相を反映している。完成祝賀会の当日には丸井水戸店が開店している。西友ストアー、東光ストアー、高島屋など大型店が市内に次々と出店した時期と重なり、商業の活性化が図られる中での誕生であったわけである。スケッチするするわきをかすめる車、シャッターで閉ざされた店々、新設されたレンガのトーチカ(?)問題は山積するも、駅にも近く商業観光としてのポテンシャルの高い所だけに、特色ある参道商店街を再構して行くべきと思う。
55期挿し絵 東照宮
この東照宮は、元和7年(1621年)に建てられたものですが、大東亜戦争によって重要文化財であった荘厳な社殿及び建造物を焼失してしまいました。
現在あるものは昭和37年に整備されたものであり、鉄筋コンクリート造であります。社宝として数多くの宝物が焼失から免れています。太刀、燈籠、神輿、緋縅甲、安神車等いずれも一級品であり、一見に値するものばかりです。
54期挿し絵 旧水海道小学校
この名建築は茨城県立歴史館の敷地の中に移築・保存されているものである。「旧水海道小学校」の建築は明治14年の建築であり、とても小学校とは思えない迫力を備えている。この建物の中央の塔を中心に描いたものであるが、この部分に建物を作った精神の全てが凝縮されていると思われる。
江戸時代、水海道は鬼怒川の舟運によって商都として栄えたところである。同じ水海道では明治の初期に洋風の警察署を建築しており、その影響を受けた街の人々が5,000円余りの寄付を集めてこの小学校を作ったそうである。
校舎の設計も建築施工も水海道の宮大工で棟梁の羽田甚蔵である。羽田は水海道の一言主神社、天満宮などの造営にもあたったといわれる人物であり、この西洋風の校舎を建築するにあたっては、横浜の西洋建築を見て歩いたといわれている。
スケッチのこの塔には創設当時は太鼓が吊るされていて、授業等の合図に使われていたそうである。前年描いた学生警鐘が弘道館の学生に時を経て太鼓で小学生に時を告げる様は経験がないのだが、何か懐かしさ的なものがこみ上げてくる。
二階の柱の上には法隆寺を思わせる雲形の装飾、避雷針の精密なデザイン、中央の塔の手摺には和風の松の透かし・・・和洋混交のデザインがいかんなく表記されており羽田の建築を越えた情熱としての芸術が時を越えて伝わってくる。
53期挿し絵 学生警鐘
学生警鐘は藩校弘道館の中ほどにある鐘楼にある高さ90㎝ほどの鐘です。徳川斉昭の時代に弘道館内で時刻を知らせるチャイムとして設置されました。
本来の用途だけなら半鐘で足りるところを斉昭はこだわって鋳造を命じ、斬新なデザインとしました。
2011年3.11東日本大震災で全壊となってしまいました。